watasitanの日記

顕微受精による胚盤胞移植~妊娠~三度の流産後、奇跡の妊娠出産

稽留流産

心拍確認もでき、週数相応に順調に育ってくれていましたが、

残念ながら11週で稽留流産となりました。

9週あたりから茶オリがうっすら出ており、通院しました。

絨毛膜下血腫とまではいかないが、胎盤を作ってるときの出血ということで、赤ちゃんの心拍もしっかりしており、この程度の出血なら様子見でいいと言われました。

11週に入る前日になっても茶オリが止まらない、
生理痛のような鈍痛がある、
生理前にあるようなイライラがある、
生理前にある肛門痛がある、
生理前同様の性欲がでて来た

以上のことから、なんとなく赤ちゃんはもう生きてないような気がしました。

しかし、希望を持って、病院へ。

そこで見たのは、やはり、心拍停止している赤ちゃんの姿でした。

あぁ、やっぱりか…とどこかで思いました。

子供に話をしてしまっていたので、一緒に通院した子供に「ごめんね、赤ちゃん、生きてないって」と伝えるのが精一杯でした。

妹か弟の誕生を楽しみにしていた子供に、可哀想なことをしたと、本当に悲しく思いました。

その3日後、再診断。
やはりどう見ても亡くなってました。
手術の説明、手術の手続き。
とにかく淡々とこなしました。

じわじわと悲しみが押し寄せ、その日はさすがに出勤できず、休みました。

ふとすると涙が出てきました。
産めると思ってたのに。
家族4人になるんだと思っていたのに。
年齢的にも最後の妊娠だったのに。
可愛い赤ちゃん、手足もしっかりできて、私のお腹も膨らんできていたのに。

それでも仕方ないのだ、
染色体異常だったんだ。
受け止めるしかない。

2週間後には胎児スクリーニングを予約していました。
もし受けていたらそこでおそらく異常を指摘されたでしょう。
そのときわたしは人工死産するか、産むかという選択に苦悩したと思います。
赤ちゃんはその前に自らお空へ旅立ちました。
親孝行な赤ちゃんでした。

短い命だと知っていながら、それでも
わたしたち家族のもとへ会いに来てくれた。

わたしたち家族は本当に喜んだし、楽しみにしていました。

赤ちゃんの存在が確実にわたしたち家族の中心にありました。
たった2ヶ月でしたが、一緒に過ごせました。

ありがとうと言いたいです。


そして、先日、子宮内容物除去術を受けてきました。
そのとき不思議な体験をしました。

麻酔が入り、効くのかなと思った瞬間、なんだかよく分からない世界にいました。
花の模様や、格子の模様や、市松模様のトンネルをすごい早さで、ジェットコースターのようにビュンビュン飛んでいきました。
気持ちよくて楽しくて、幸福感がすごかったです。
多分赤ちゃんと一緒にいたと思います。
「ほら!見てごらんすごいねぇー、楽しいねぇ」と話しかけていました。
そして、そのトンネルから抜けたところで、わたしだけ現実に引き戻され、看護師さんの声が耳に入ってきました。

オペは終わっていました。
ほっとしました。
終わったんだ。と。

ただ、週数が進んでおり、子宮がだいぶ大きくなっていたので、子宮の戻りが悪く出血も多かったです。

麻酔が抜けず、ずっと船酔いのような感じで、何度も吐きました。

お腹はペタンコになっていました。
エコーでの術後診断にも赤ちゃんは映らず、「もう居ないんだよね」と悲しくなりました。

帰宅したら子供も泣きました。
赤ちゃんはどこへいったの?と聞かれ何も答えられませんでした。

もう少し週数いってたら、死産扱いで、火葬して遺骨を残してあげられたかもしれません。
11週ではそれはできませんでした。

その代わりに、赤ちゃんのお人形を買うことにしました。
亡くなった赤ちゃんには手術前に最初で最後のプレゼントとして名前をつけてあげました。
同じ大きさの人形にその名前を入れてもらいました。お腹から出された年月日も。

エコー写真もとっておき、最後のエコー写真は母子手帳に挟み、母子手帳にはちゃんと名前を入れました。

この世に存在したということをきちんと残してあげたかった。

わたしの妊娠も妊活も終わりましたが、
また、万が一の奇跡が起きて、
自然妊娠で二人目(四人目…最初の妊娠も出産できませんでした)を授かったら、またこちらに報告いたします。


お空にいるわたしたち夫婦の子供達がいつも側で見守ってくれている。

笑顔のママが大好きな子供達だと思うので、早く心から笑顔に戻れるようになりたいです。